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文の文

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チラシ配りの日々・4
             
路地の突き当たり近くに、女の子がひとり、門の前でぺたんと地べたに足を投げ出して座っていた。ピンクのTシャツに包まれた小さな肩に茶色い髪がふわりと広がっている。細い足に白い靴が不釣合いに大きく見えた。
 わたしの顔をみると、表情を変えず、立ち上がって寄ってきた。すっと細い腕を差し出して、小さな手のなかのものを見せる。手首ちかく血管が白い肌に青く浮き上がっていた。
「これ、どんぐりなの。マテバシイなの」
「まあ、たくさんあるのね」
「一、二、三・・・十一、十一個あるの。わたしがひろったの」
「へー、そうなの」
「おばさん、公園知ってる? 知らないの?ここまっすぐ行ってちょっと横を入っていくの」
「そうなの。たくさん、独楽ができるね」
「どうするの?」
「爪楊枝さすのよ」
「そう、これマテバシイのどんぐりなの。独楽になるの。十一個あるの」
 女の子は建物の隙間から差し込む西日のなかで、独り言のように、鼻歌のようにことばを繰り返す。首を左右に振ると髪が金色になって揺れる。
 わたしが行きかけると、ねえー、と猫が足元にまとわりつくような声を出す。表情のわかりづらいはれぼったい一重まぶたの下の眸がわたしを見上げる。
「ろくにち、にね、学校からみんなで秋探しにいくんだよ」
「へー、おもしろそうだね」
「イチョウとか落ち葉とかどんぐりとか、探しにいくの。あの公園にもいくの。あっ、これオシロイバナの種。なかに白いのがはいってるの」
 他所の家らしい庭先にお構いなしに入っていく。黒い土の上に正座して次から次へ種を取る。そしてまた、それをわたしに見せる。
「ああ、そうだね。白いの、顔に塗っちゃダメだよ。痛くなっちゃうかもしれないからね」
「ふーん」
「ね、おばさん、もういくね」
「おばさんおばさん、どんぐり、靴のなかにいれちゃった。ほら、見て。十一個全部はいっちゃった」
「えー、痛くないの? 靴が大きいの?」
「靴は二十センチなの」
「そうかあ。じゃあね。おばさん、いくね。バイバイ」
「バイバイ。おばさん。またどんぐり見せてあげるね。マテバシイ」
 振り返ると、小さな眸がこちらを見ていた。夕日が沈みそうだった。小さな膝小僧が泥で汚れていた。
路地の突き当たりの手前で仕事をする畳職人さんに出会ったこともある。
 地べたに広げた青いシートの上で片ひざ立てて、大きな針でスイスイと縫い進む。肘をたたみに当ててキュッとしごく。それがカッコいいのだ。畳を切断する小刀がまたいい形なのだ。小さいときから畳職人さんの仕事ぶりを見るのが大好きだった。
 路地の家々にチラシを入れた後、立ち止まってそのひとの手元を見つめていると、七十歳くらいの職人さんが顔をあげて「何配ってんだい?」と聞く。こちらを向いたそのひとの開いた口元から隙間の開いた歯が見えた。ちょっと笑っている。
「不動産屋のチラシ」
「へーそうかい」
「一枚五円だよ」
「へーいいじゃないか」
「でもマンションとかアパートはいれちゃいけないんだよ。一戸建てだけだよ」
「マンションだといっぺんに済んでいいと思ったけど、そりゃあたいへんだな」
「畳の景気はどう?」
「だめさ。今はどこもフローリングだからさ。畳なんていらねえのさ」
「でも台風で浸水したとこじゃあ畳入れるのが大変らしいよ」
「ははっ、関西に行くかね。ま、あんたもがんばりな」
 うんうん、頑張るよと頷きながらまた歩き始める。そして、そういえば、と思い出す。
 改装中のお宅にチラシを入れたとき、中からなにやら建具を抱えた男の人がホッホッホッといいながら出てきたことがあった。大工さんか建具屋さんだろう。玄関先でこちらをチラッとみたそのひとは「おっ、ごくろうさん」と声をかけてきた。
 そのときもその言葉に励まされたのだった。一枚五円のチラシ配りを励ましてくれるひとがいる。手の仕事、体の仕事をしているひとの励ましはすーっとこころのほんとうのところに沁みてくるのだった。
大きな通りから横道へ入り、なおも細い路地から路地へと歩いていくと、だんだん家が小ぶりになっていく。足元の土の上には導くように飛び石が敷かれている。夏の名残の雑草がはびこる。
 長く曲がりくねった路地には崩れ落ちそうな木造の家がこっそり建っていたりする。剥がれかけた板塀が細い長方形に切り落とされている。そこが郵便受けだ。裏側はどうなっているのかわからないが、そこにチラシを入れる。煤けたガラス戸の向こうにどんなひとが住んでいるのだろう。
 板塀の中から植木が伸びる。手入れの行き届かない枝は路地に伸び日差しを遮る。路地には湿気じみた土の匂いがする。壊れた傘が捨て置かれていたりする。
 なおも路地を進んでいくと、その突き当たりに思いがけなく空がひらけていた。長雨が上がった庭にコスモスが咲き、その前に立つ物干し竿に白いシーツが何枚も揺れている。竿に通すその干し方もなんだか懐かしい。
 家の引き戸が開いている。家の中に風が吹気抜けていくのがわかる。磨きこまれた玄関から室内が見える。
 きっと、ここは、もののありかがたちどころにわかる家だ。高価なものというより大切に扱われてきたものがあるにちがいない。
 玄関横に雨戸入れがある。雨戸のある暮らしはわたしにとっては遠くなったと改めて思う。昭和五十二年に結婚し、転勤を重ねてきた。以来三十年近く集合住宅に住んでいる。
 古い田舎家である実家では、昼から夜への幕引きのように毎夕雨戸を閉めた。夜がきちんと夜であったそのころ、日々は今よりゆったりと明け暮れた。
錆びた樋が見える。雨は瓦屋根を伝い樋に集まる。集まった雨水は樋のなかを流れ落ちる。この小さな家に降り注いだ雨は、ドドッといったろうか、ゴゴゴとなったろうか。その音を聞かなくなって久しいと気づく。
 ここは昭和の香りがする。使い勝手はどうだかわからないが、住人と思い出を分かちあい、変わらず慈しまれている家だ。
 老婦人が家の前で腰を曲げて引き出しを干している。衣替えの準備か。藤色のエプロンと働き者の手が見えた。こちらをむいたそのひとはしっかりした声で「なにか」と聞いた。
 一瞬口ごもる。わたしの持っているのは一枚配って五円の売り家募集のチラシだ。「古家が建っていても大丈夫」とも書いてある。目の前の年を経たこの家にそのチラシを運ぶことがいいことなのかどうか、わたしにはわからない。
 それでも「こんにちは、チラシ配りなんですけど、ご迷惑だったら持ち帰ります」と答えた。そのひとは「いいですよ。もらいますよ」と言った。
 老婦人は受け取ったそのチラシを読んだだろうか。そんなことが気にかかっている。



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